1. 書籍について
今回ご紹介するのは、エルンスト・H・ゴンブリッチによる『美術の物語』(訳:田中正之)です。ラスコーの洞窟壁画から現代アートまで、人類が生み出してきた美術の営みを一人の著者が通して語りきった、世界的なロングセラーとして知られる一冊です。以前から書店で見かけるたびに気になっていたものの、大判の分厚さに何度も手が伸びずにいました。そんな折、持ち運びしやすい「ポケット版」が刊行されたのをきっかけに、ようやく購入を決意しました。断片的にしか触れてこなかった西洋美術の歴史を、一つの大きな流れとして体系的に理解したい、というのが私の率直な期待でした。
2. 主題やテーマ
本書の核にあるのは、「美術に絶対的な正解や進歩の頂点は存在しない」という考え方だと私は受け取りました。それぞれの時代の芸術家たちは、常に前の世代が築いた様式や価値観を乗り越えようと格闘し、その連続的な挑戦の積み重ねこそが美術史という「物語」を形作ってきたのです。私がこのテーマに強く惹かれたのは、これまで断片的に鑑賞してきた作品同士のつながりを知りたい、という思いがあったからです。ゴシック、ルネサンス、バロックといった様式を個別に味わう機会はあっても、それらを一本の線として捉える視点を持てずにいたことに、本書を読み始めてすぐに気づかされました。
3. 感想の詳細
実際に読み進めてみると、私はまず本の構成そのものに強い印象を受けました。前半約500ページが本文、後半約500ページがカラー図版という独特のつくりで、文章を読みながら該当する図版を探しにいくという読書体験は、これまで経験したことのないものでした。ポケット版ゆえに図版と本文の距離が遠く感じられ、行きつ戻りつする手間はありましたが、それすらも一つの儀式のように感じられ、読了後には不思議な達成感が残りました。
内容面で特に心を動かされたのは、エジプト美術は「知っていること」を描き、ギリシア美術は「見えていること」を描き、中世の画家は「感じていること」を描いたという整理でした。この説明を読んだことで、私はこれまでピンとこなかった中世宗教画の装飾性や、古代エジプト美術特有の横向きの人体表現の意味を、腑に落ちる形で理解できるようになりました。同様に、レオナルド・ダ・ヴィンチという巨人の後を継いだ世代がいかに苦悩したかという記述からは、エル・グレコの異様に引き伸ばされた人体表現の背景にある切実さが伝わってきて、思わず唸らされました。
また、ゴシックやバロック、マニエリスムといった様式名が、もともとは軽蔑的な意味を込めて付けられたレッテルであったという指摘には、美術史そのものが常に評価と再評価を繰り返しながら形成されてきたのだという事実を突きつけられ、強い興味を覚えました。印象派が同時代の批評家から酷評されながらも、後にモダンアートの潮流の起点として評価される様子を読んだときには、「正しさ」とは常に暫定的なものにすぎないのだと実感しました。
終盤、著者は「物語の流れがいくつもの支流に枝分かれしてしまった」現代美術の状況を率直に語りながらも、そこに希望を見出すべきだと締めくくっていました。抽象と具象のあいだを探求したニコラ・ド・スタール、数々の「主義」から距離を置いたモランディ、絶えず新奇さを追い求めたポップ・アートなど、多様化した美術のあり方が並列して紹介される様子からは、一つの正解を失った時代を生きる芸術家たちの模索そのものが伝わってきて、私は静かな感慨を覚えました。読み終えた後、美術館に足を運ぶことがより一層楽しみになったのは、この本がもたらしてくれた最大の恩恵だったと思います。
4. 考察や疑問
一方で、読み進めるうちに私の中で拭えなかったのが、本書が徹底して西洋中心の視点で書かれているという点です。改訂を重ねてなお、アジアや日本の美術への言及は非常に限定的で、日本で生まれ育った身としては物足りなさを感じずにはいられませんでした。とはいえ、この「取りこぼし」こそが美術という世界の豊かさの証でもあるのではないか、とも考えました。これほど網羅的な一冊をもってしても語り尽くせないほど、美術の世界には多様な物語が眠っている。そう捉え直すと、語られなかった部分にこそ、これから自分自身が学び、語っていく余地が残されているのだと、むしろ前向きに受け止められるようになりました。西洋美術史をひと通り追えたことで、今度は日本美術史をきちんと学んでみたいという新たな関心が芽生えたのも、この本がもたらした副産物だったと感じています。
5. 結論
総ページ数1000ページに迫るこの大著を読み通すのは、決して楽な道のりではありませんでした。それでも、平易な語り口と豊富な図版に支えられ、最後まで飽きることなく読み進めることができました。美術史を一貫した「進歩」の物語としてではなく、各時代が抱えた課題への応答の連なりとして描き出す本書の姿勢は、私にとって美術鑑賞の視点そのものを更新してくれる貴重な体験となりました。西洋美術に偏っているという限界はあるものの、それを差し引いてもなお、一冊で人類の美術の大きな流れを掴める本書の価値は揺るぎません。美術に興味はあるけれど何から手をつければよいか分からない、という方にこそ、ぜひ手に取っていただきたい一冊です。
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